ジュゼッペ•シニスカルキ「フロントヴァーシズム」
私の考えを簡単にまとめよう。
「フロントヴァーシズム」という言葉は、私が新しく作ったオリジナルなものである。世界を少しでも良い方向へ、平和な世の中へ導くことができたら、という思いから、哲学的に文化的に芸術的に新しい考え方として捉え、かつてない新しい絵画の手法として、「フロントヴァーシズム」を提唱した。
私はキャンバスの裏にまで絵を描く。時には細部の見えにくい所にまで、時には額の底部にまで。その絵は確かに存在しているが、表から見えることはない。しかし、意味深い何かを残す。
それはまるで、存在はしているのに、我々の目には映らない多くの事物のようだ。多種多様なエネルギーや、非物質的な物、様々な感情、無限の宇宙に広がる銀河や惑星、マクロコスモス(大宇宙)やミクロコスモス(小宇宙)の各空間要素のように。
今、我々がこうしていられるのは、何のおかげであるのか、考えてみないか?人として生まれ、生き、様々な感情を覚えるのは、内に秘めた、外からは見えない”何か”のおかげではないのか?私は絵画も我々と同じ様に心や魂を持っていると確信している。そして、それは、表面上は見えないが、必ず存在し生きている。画家の躍動する心の鼓動を介し、絵はエネルギーを持ち、不滅の魂を人々に感じさせることができる。
キャンバスの前から見たのでは見えることのない物の価値を改めて考える時、絵画は、我々人類が世界とどのように向き合うべきなのか、改めて考えるきっかけに なりうるのではないだろうか?自然、限りある天然資源、対人関係など、目には見えないものに対し、我々はもっと敬意を払うべきなのかと、自問自答する機会を与え、自身の考えに変化をもたらすかもしれない。特に対人関係においては、日々の喧騒の中で、うわべだけのものになりつつあり、コンピュータや携帯電話のスクリーン上に限られてきているように思えてならない…。
「フロントヴァーシズム」は、また、逝去した人々を決して忘れてはいけない、という重要な意味も持つ。当然、我々の記憶には限界
というものはある。しかし、彼らは私たちの中に消えることのない、忘れることのない、何かを確実に残していく。
争い事の多くは、己の身の程も知らず、決して満足することもせず、他人の意見を悪用し、思い込みに固執し、全世界と より良い関係を築き上げようとする意識が欠如しているために起こるのではないかと思う。表面に見えるところだけに留まらず、さらにその先の深いところまで考える、という姿勢は、日々の喧騒のなかでおざなりにしがちな物事を、再評価するきっかけを与えるのではないだろうか。そして、また、平和を得る為には絶対不可欠である異文化間での相互理解にも役立つのではないだろうか。平和、それは決して軽視することの出来ない、絶対的な価値のあるもの、と私は考える。
「フロントヴァーシズム」は、木枠とキャンバス布のような貴重な天然資源を、無駄なく、最大限に有効活用しよう、という呼びかけにもなる。
ここまで「フロントヴァーシズム」の重要性を述べてきたが、私はしかし、常に裏にまで絵を描くわけではない。その時のインスピレーションに従う。時には短い文だけのこともあれば、時には筆でひと触りするだけ、小さな花を一輪だけ描くこともあれば、小舟を一艘だけの時もある。また、何も描かない時もある。「無」は宇宙の基本要素だからだ。
「フロントヴァーシズム」の概念のもと表現された作品は、その裏面を深い意味を示す物として、意識して飾る必要はない。裏面の絵は、顕微鏡で肉眼では見えない物を見るように、機会があったら見れば良いもので、オープンスペースに額を吊るしたり、透明な板に額を立て掛けたり、写真立てとして使われるような三脚の台に飾ったりする時に、見えれば良いものである。
「フロントヴァーシズム」の考えのもと表現された絵画の最大の魅力は、表と裏で表現されている点と、芸術作品が世界と良いバランスを保つ、という点にある。画像や思考や省察などと同じ様に、世界をより良い方向に導くことに貢献できる点にある。
絵画は、常に皆に親しみ愛されてきた芸術の一つであるが、現在、多くの分野で世界中に起こっている危機的状況でも、根底に位置するものと考えられ、音楽やファッションや建築と同様に、我々の生命を維持するリンパ液のようである。
我々は通常、表に見える物だけに関心をおきがちであるが、裏に潜んで見落としている物こそ大切なものがあるのではないのかと、この「フロントヴァーシズム」の考えで、皆に気付いてもらえたらと思う。
科学の分野で最近、画期的な発見と進歩を成し遂げたナノテクノロジーなどがよい例で、これは未来への技術を発見したのみならず、目に見えない物の重要性を我々に教えてくれる。
残念ながら、この「目に見えない物の価値」は、まだ多くの人に気付いてもらえていない。
私はこの考え方を展開するために、哲学的に文化的に芸術的に新しいものと位置づけ、「フロントヴァーシズム」と名付けることにし
たのだ
画家のほとんどの人が裏にまで絵を描かないのは、私にはとても限られたことをしているようでならない。宇宙全体を考える時、エネルギーや非物質的なものなど、とても多くのものが、我々の目(それは限りなく小さな物であるが)には見えないが、しかし、実は存在はしている、という事実に気が付くであろう。私はこの考えに基づいて、キャンバスの裏の一部分や時には全面に絵を描くのだ。(私の作品「田舎と海の間で瞑想」や、「宇宙の平和」、「月と平和」、「春の平和の感触」、「上越の満月の夜」「火星より強い、月-和」、「月と和」、「太陽と和」、「砂漠の平和」、「星空の下の平和」、「平和のエネルギー」、「平和と自然」、「無限の平和」、「バナナとニンジンのダンス」、「惑星間の平和」、「平和の天秤」、「平和と仕事」、「海岸の平和」などにその例が見られる)。
無論、作品全ての裏にまで絵を描いているわけではない。禅の教えにもあるように、「無」は大切なことでもあるからだ。
この「フロントヴァーシズム」は、既に誰かが唱えているのか、また、自分が第一提唱者なのか、関心はない。私にとってこの考えは至極当然のことであり、それは昔から自然に持っていた考えなのだ。(その証拠に、私の小学生の時の作品「幸せなジャガー」、「田舎の風景」、「数」にその考えが見られる)。
最後に、私の考えを15の項目に要約しよう。
1) 絵には、表からは見えないところに、画家の心と魂がある。
2) 見えないもの、それは不滅である。
3) 大宇宙や小宇宙の全てにおいて、表と裏は存在する。
4) 表だけ見て終わりにするのはやめよう。目に映るものは概してそれほど重要ではないことが多い。
5) 芸術は、平和について絶大な力をもつ、ただ一つの世界共通語である。
6) 大きな決断を迫られた時は、必ず危険とチャンスを伴う。平和への道には、必ず大きな成長の可能性がある。世界平和を真に願う者には、大きなチャンスが巡って来る。
7) 己の中に存在する、平和や平穏や幸せを強く望む気持ちを解き放ち、心のままにそれらを求めていこう。
8) 宇宙の美しさを尊み、敬意を表し、感謝の気持ちを忘れないようにしよう。
9) 常に自然の声を聞き、自然の中で瞑想し、そして自然に敬意を表すことは、自然についてあれやこれやと語る以上に、大切なことである。平和について考え、沸き起こる感情を、色や絵に例えていこう。そうすれば、この世はきっと良い方向へ向かっていく。
10) 笑顔は生のエネルギーである。
11) どんなに困難な境遇でも、常に平和を私たちの考えと行動の中心におけば、見通しは明るい。
12) 信頼は、宇宙の中で人間の存在をより高く、崇高なものにする。
13) 多くの問題は人間の小さな思い込みにより生じることが多く、壮大な宇宙に対して人間がいかに小さい存在であるかを考えれば、そのような小さな思い込みはすぐに忘れられる。
14) 謙遜は計り知れない価値を持つ美徳であり、愚者や偏見を持つ人は、そのことに気がつかない。
15) 貴重な資源を最大限に利用するために、紙の裏やキャンバスの裏にも絵を描こう。この考えは、この星の限りある資源を大切にし、世界の争い事を減らし、世界平和に繋がるであろう。
ジュゼッペ•シニスカルキ
「絵画専門の学校に通ったこともないし、絵の先生もいません。学校時代に教室で習っただけです。ただ、吾妻兼二郎氏やジョルジョ・ベルリーニ氏のようなすばらしい彫刻家、さらに画家のフェルナンド・リール・アウディラックといった著名な芸術家たちと個人的に知り合うという幸運には恵まれてはいました」と、シニスカルキは自分がどうやって芸術家となったかについて語っている。 そもそも法曹界で成功している彼について、職業的にアーティストを目指しているかのように言えば、それは尊敬を欠くことになってしまう。彼が今まで自分の歩みについてどんな風に語り、どんなイメージを描いてきたかをたどれば、彼が芸術家であることは明らかなのだ。むしろ、彼は芸術と実務的職業の間を行き来した芸術家たちの系譜に連なっているというべきだろう。たとえば、税官吏で画家だったルソー、政治家ウィンストン・チャーチルのように。ただし、向き不向きで言えば、ルソーは税官吏には向いていなかったが、ウィンストン氏は政治家として大いに有能かつ優れた風景画家でもあったところが、非常にイギリス的だった。
シニスカルキはどうかと言えば、彼は自己流の画家ではあるが、自らの画風の完成に必要な思索の場を、精神性や哲学に求めてきた。そして、彼が出会ったのが日本の伝統文化だったのだが、それは20世紀絵画において何も彼一人に限ったことではない。
彼の場合、それはどうしてだったか。まずは彼の個人的な事情、つまり家庭の事情があったが、それだけではない。もっと本質的な理由がある。すなわち、日本の精神主義における書や思索、行動における振る舞いというものがほのめかし、決定づけているものをこそ、彼は求めたのだ。シニスカルキが自分自身について書いている中で、自分の絵画的空間に「書」をとり入れたことや、紙へのこだわりについて語るが、それこそがその根底にある要素なのである。そして、彼が自分の精神的な探求において重要な出会いから刺激され、平安や信仰を表現するパースペクティヴを探求しているということでもある。
そもそも「芸術と平和」が彼のモットーで、彼のホームページのタイトルでもある。今日、ネット上に自分のデジタルなスペースをもつことがどんなに大事かは誰でも知っているが、絵画、哲学、瞑想と信仰の間を行ったり来たりする場になっている。そのような歩みから、キャンバスの伝統的な次元が我々自身の内面に、自然と結びついていく。そして、彼のイマジネーションは一枚の絵画の表面全体に広がっていくのだ。つまり、周囲の枠から裏側まで。そこで、ちょっと皮肉にもきこえる「裏表主義」という理論に内面化された。そのような空間的な次元が絵画的な意図となり、それは彼が「禅」の思想から得た虚の重要性についての意識に支えられている。
絵画の対象は(今日の現代アートにおいてそれが周辺的なものであっても)シニスカルキにとっては、絵画的表現の型がどのように、認めうる場に位置づけられるかに関し、確かで無視できない出発点であり、絵の流派や流行にとらわれないものだ。だから、どのような影響を受けてきたかとか、美術史的な議論は意味がない。我々が前にしているのは、実際本質的に個人的で内密で自伝的な表現であり、シニスカルキが実際の人生において歩んできた重要な文化的発見に重なっているからだ。
このカタログに添えられた詳細なテクストにおいて、彼は自分のオリジンを語っており、いかに芸術的感性が、まず少年時代には「息子」として、後に成人してからは父(夫)として、出会ってきた家庭における風景と結びついているのかについて述べる。ジュゼッベ・シニスカルキの仕事とは、つまりは「言語ではないもので書かれた日記」なのだ。そして、言葉自体も象徴としてコンセプトとして立ち上がってくる。それは、過去の証である日記であり、かつ未来のさまざまなヴァリエーションに向き合うことができるものだ。そして、彼はこれからも、画家として、弁護士として、日本文化の理解者として、信仰の人として、生きるのである。
フィリップ・ダヴェリオ Philippe Daverio
オネリオ・オノフリオ・フランチオーゾその日は突然やってきた。 僕は運命的に、ジュゼッペ・シニスカルキの絵と出会い、すぐさま観想状態に陥った。その日、長年自分を煩わせてきた疑問の答えを、僕は見つけたと思う。直感的に見て楽しむものとして芸術作品に触れるようになってからずっと、僕はその疑問を抱いてきた。芸術とは何か?芸術家とは何者なのか?その答えを得るために僕は多くの大学教授や高名な専門家の話を聴いた。
ルイ14世が自らの息子である王子に書いた『memorie』によると、専門家やエリートの話は信じ込まない方が良いということらしい。 僕の苗字は「フランス」に似ているけれども、また僕はフランス王子ではないけれども、ルイ14世の遺した有用なアドバイスを、僕はいつも忘れないようにしてきたし、歴史的コンテクストの中で今日のような時代には、特に忘れてはならないと思っている。誰しも、ほかの誰かの助けを借りることなく、自分自身の意志と魂が感じるままに答えを出したり説明したりすることは可能だし、またそこに歓びを見出すことも可能だと思うのだ。今の世の中、僕たちはただでさえ、周りの言うことにすぐさま影響されるようになってしまっている。いわれもなく、残酷に、地面に押し潰されるように。そうしてなんでも無残に捨て去ってしまうわけだが、僕はそんなことはしたくないと思う。
さてここまでは前置きだ。僕は、ジュゼッペの芸術作品を最初はふっと本能の感じるままに、そしてやがて慎重に、観察した。その時に僕の中に生まれた快い何かを、これから表現してみたいと思う。
僕は、優美な感情を追求する人間としての謙虚な気持ちから、概念の上での芸術家の定義を一つに限定したくない。芸術家を、「普通でない」生き方をする人物や、いかさまのオリジナリティーを気取る人物と混同するような過ちはおかしたくないからだ。逆に僕は、根源的な力が、意識の中に稲妻のように光って僕自身を照らし出す時の感受性で、芸術家の定義を言い表したい。芸術作品が生まれる時に必ず僕の中に訪れるあの、うっとりするような魅惑的なひらめきを表現したいと思うのだ。
芸術とは何か?
ジュゼッペの作品の前に立ってまず気づくのは、全ての作品が、過去から現在までのどんな時代にあったとしてもしっくりくる、ということだ。つまり時代にかかわらず評価されただろうということだ。なぜなら、「時間を超越した」現実の中に、作品が流れるように存在しているからだ。いずれにしても、物理学で言うところの「時間の矢印」 (あの誘惑)から始めるべきではないことは、わかっている。
ジュゼッペの作品には、今から最も遠い時代に人類が描いた壁画に見られるような、原始的な筆の跡が見られる。その時代の人類はすでに、その進化した特徴的な感受性でもって、地球上のその他の存在とは明らかに違う表現・伝達形式を用いていた。原始時代の掻き絵が証明するのは、その時代の人類の際立った創造力だ。それは、人類が天から与えられた観察力によるもので、そしてその観察力は、天才的なほどに純真な好奇心があればこそ、ほとばしるように生まれてくるのだ。
そう、それが、ジュゼッペの絵を見る僕の目に最初になだれ込んでくるものだ。ジュゼッペの作品は、単純で、無垢で、率直で、懐かしい、あけっぴろげに純良な心の中に、見るものを引き込んでいく。彼自身が抱いた感動が、そこに永遠に跡を残すようにして心の中に拡がっていく。子供のように無垢な心でも、感動を表現し残すことができるということを、彼は無意識に次世代に伝えようとしている。それは、今日あらがえないほどに膨らんでしまった複雑さの中に包み隠された悪の力がじわじわと広がるのを食い止めてくれる。
芸術は、作者の感動をそのまま忠実に再現するためにベストの技術を選択して初めて勝ち得るものであって、作品に使われている技術そのもので評価するものではない。
芸術史の中で技術は進歩してきた。僕らは常に新しい技術を試すわけだが、そのうちのいくつかの試みはときに、虚しく悲しい結果に終わっていると言いたい。にもかかわらずこれらの試みは、芸術として受け入れられ、賞賛すらされている。実社会で商業的に高く評価されているあの技術、この技術は、目の肥えた人々からも認められている。しかし、芸術そのものの本質からはどんどん離れていっ
てしまっているのではないか。そこには色々な原因があるだろう。僕らが生きる現代の、後先を考えない軽薄さもその原因のひとつだ。芸術は、最も人工的な現代の生活の双務的な環境の中でおとしめられ、中世に熱烈な直感で「固体化の原理」と呼ばれたあの知的手法で弁証法的に説明しうるものに成り下がってしまった。
ジュゼッペ・シニスカルキの芸術作品は、汚れが染み付いたこれらのスキームとは無縁のところにある。人間が作り出す客観的存在を規定する幾多の原理を、また、神だけがこの宇宙の秩序(ジュゼッペの、汚れない気持ちで溢れるメッセージの中に隠れた宇宙の秩序)に与えることができる主観的存在を、神の内在が僕らに告げているということを、本質的な創造的感動を通じてジュゼッペの作品は知らしめてくれる。ジュゼッペは間違いなく、シンプルなそれでいて謎に満ちた神の指令を理解しようと努力している素直な芸術家だ。僕らが日々現実世界に映し出すややこしさとは彼は無縁だ。僕らはややこしさに自分自身を放り込んで、神の意志を代表している、あるいはまねていると思い違いをしているけれども、ジュゼッペが使う線と色には、神への敬意が込められているのが分かる。まるで、一筆一筆が神に感謝を表しているようだ。そしてその一筆一筆が、彼が体験し、つかみ取り、秩序付けた強烈な感動を表現している。僕らは今それを見ながら、未来を懐かしく思い起こすのだ。ジュゼッペの作品の中に見られるシンボルは、人間である僕らの中の何かを変えるささやきの声に僕には見える。ふと気がつくと、たった1枚のキャンバスが宇宙のように限りなく感じられ、絶え間なく脈打つのを感じる。彼の作品のうちのいくつかを、額縁の中に収めるのは犯罪行為に等しい。なぜなら側面にまで絵が続いているからだ、永遠を追い求めて。彼の作品のテーマに特に表れているのは、彼がたどり着いた静寂の感触を永久にそこに残したいという強い思いだ。そう、静寂こそ、現代において明らかに強く求められているものだ。さまよえる侍の魂が、砂糖のように甘く、優しい刀を携えて、至高の平和のメッセージを伝えたいと願うように。
芸術は時代に関係なく流れるものだ。僕らの心に、意識に、魂に触れる、シンプルなものだ。芸術はいつも、理知の歓びを呼び覚ましたいと願うところから生まれる。複雑で難解なテーマを表す時もそれは変わらない。芸術は、誰も傷つけることなく、僕らに自然と内省を促す。誰かを傷つけるような作品は芸術ではない!芸術は、神聖なものを敬う、謙虚な感謝の気持ちそのものだ。芸術は、永遠の命に愛の跡を残そうと切望する人間の灰のひとかけらだ。これら全てが僕にとっての芸術だ。もしそう考えるのが僕だけで、他の人々
にとっては違うとしたら、流れ去っていくこの今、あなたがこのコンセプトについて僕が書いたこの文章を読んでいるというのは不思議なことだし、奇跡としか言いようがない。僕がこんな風にじっくり考えて書き上げることができたのはジュゼッペの芸術のおかげだ。彼に出会うことがなかったら、多分僕はだらだらと怠けて、この考えを言い表そうとはしなかっただろう。芸術に触れると、人生を愛したいと思うようになり、無限とは何かが一瞬でわかる。まるで、それまで見ていた夢が現実になり、目が覚めた後でもはっきりと鏡に映っているかのように。たとえそれがまだ、壊れやすく華奢なものだったとしても。
僕ら人間の意識は、禁じられた目的論的個体発生のアルゴリズムだと僕は信じている。だから芸術だけが僕ら人間の自我を解き放つことができるのだ。
芸術は、計り知れない人間の魂を、その力で計りうるものにしてくれる。
この意見をしたためた僕自身はいずれ死ぬ運命にあるけれども、僕は信じる。芸術への熱い思いがあるから、僕らの壊れやすい人間性は気高く昇華し、僕らは救われるのだと。
オネリオ・オノフリオ・フランチオーゾジャーナリスト・作家・社会学者・法律学者
ガブリエレ•グリエルミーノ無言に広がり続ける 絵画の英知
ジュゼッペ•シニスカルキ氏の絵画全集を論評することは、慎重に思慮深く取り組みさえすれば、さほど難しい事のように思えなかった。しかし、彼の絵と向き合って行くうちに、段々と簡単な作業ではないことが分かった。私は論評を書く方法でさえ、慣れ親しんだ通常のそれとは変える必要があった。はじめは純粋に美しい絵だと思った。細かい事にまで心を配れる、感性の高い人による絵だと思った。正直言って、彼の論評にこれほどエネルギーを要するとは想像しなかった。私はまず 言語学的な面から取り組み始め、次に精神的な面においてもかなりの準備を要せねばならなかった。
これがジュゼッペ•シニスカルキ氏である。
私は大学を出たのはかなり前であるし、芸術へのアプローチの仕方もすでにかなり時代遅れなものであるので、そう、毎日が幸せで他には何もなかった少年の時代にもどったような気になって、まるで初めて絵画を理解しようとしているかのように、一からやり直さなければならなかった。
絵画の世界にしばらく身を投じることは、私にとって大変有意義なことであった、精神的に優美で穏やかな心地よさを得ることが出来ただけでなく、私の生活観や世界観を広げるきっかけもくれたからだ。
私は日頃、論評は決められた期日までに書き上げるのだが、今回はそれを大きく延長してもらわねばならなかった。ジュゼッペ•シニスカルキ氏の作品に自身を同調させるだけでなく、彼の絵画から滲み出る宗教哲学の思考にも自身を調和させるのにかなりの時間を要したからだ。
芸術作品の創作者が教養豊かで、洗練されていて、人間性が多彩であればある程、その芸術作品を論評する事はより困難になってくるのである。
絵画を鑑賞する時には、何も前情報を得ず、思うがままにストレートに観るべきだと言う人もいるが、ある程度前もって勉強しておくことは、絵画をより深く鑑賞、解釈するためには重要であると私は考える。さもないと、ただの絵画の閲覧になったり、また、それ以下のものになってしまうことは避けられないのではないだろうか。ジュゼッペ•シニスカルキ氏は、弁護士でありながら、芸術家でもある。芸術活動を近年になってようやく本格化したので、大器晩成型と言っても差し支えないだろう。彼は弁護士としての優れた分析能力の一面を絵画の中にも反映させ、卓越した思考能力によって、従来の芸術家を超えた芸術作品を創り上げている。
芸術家が絵を描く時、単に目の前に見えるものを描くのではなく、芸術家が培ってきた文化的な要素を取り入れることが必要であろう。それが成された時、芸術家は作品-オブジェの隅々にまで注意を払い、熱情を注ぐことが出来るのではないか。シニスカルキ氏は、伸び伸びと自然のままにキャンバスの枠を乗り越え、表面のみならず裏面にまで表現を続ける。シンボリックな言葉を頻繁に登場させることにより、伝えんとするメッセージはより明白となり、鑑賞者の関心をより強く惹きつける。
ジュゼッペ・シニスカルキ氏の素晴らしいひらめきにより、「フロントヴァーシズム」の言葉は生まれた。それは、読んで字のごとく、表面と裏面に作品を描く事であり、つまり作品の表面すべてに表現することである。
フロントヴァーシズムは、提唱直後から、作品の景観をより大きくワイドに見せ、大変効果的であると多くの人に受け入れられた。そして、この言葉を提唱したことにより、シニスカルキ氏は、正真正銘、新たな文化的、芸術的、宗教的、哲学的な運動の第一人者とな
ったのかもしれない。このカタログはその新しい運動の第一歩である。私は彼の作品-オブジェに共感を覚えるのだが、それはフロントヴァーシズムの考えの元に描かれた作品が、鑑賞者が作品のさらなる続きを見たいと願う時、また、普段誰も見ない裏面も見ることによって作品全体を見たと満足したい時、それらの願望を満たしてくれる「総合的な作品」と言えるからだろう。
我々の芸術家、シニスカルキ氏は、「フロントヴァーシズム」を提唱し、芸術の歴史に新たな流れを作り上げた。それは、彼が作品の中で完全に取り除いてしまったように、従来、額により制限されてきた限界を完全に排除した、一瞥しただけでは理解し難いかもしれない、美と知識からなる何か素晴らしいものを私達に伝える、高雅で力強い新しい芸術スタイルと言えるだろう。
何週間かかけて彼の芸術作品を観察しているうちに、ようやく彼の目的と文化的野望を理解したと思う。それは、ルネッサンスの最盛期に他の芸術家たちが成し遂げた偉業に、勝るとも劣らないものなのではないか、という結論に達した。たとえば、フィレンツェのロレンツォ•メディチ家の邸宅で、マルシリオ•フィチーノ率いるプラトン•アカデミーが志したように、当時芸術の首都フィレンツェでは、キリスト教と異教という異なる宗教文化を芸術作品を通して、融合させようとしていた。ジュゼッペ•シニスカルキ氏も異なる二種間の調和を表現しようとしており、それは他ならない文化的な、精神的な面での、西洋と東洋の思考の調和である。
私は文頭で全集と述べたが、今回の目的に関係の薄いものは除外されている。この全集はシニスカルキ氏の人生を時を追いながら網羅している。このカタログを手にするものは、彼の画家としてのキャリアの始まりの年少期から、画家活動を強く欲している自己を認識する今にいたるまでの、長く様々な時を経た彼の画家としての道筋をたどれるだろう。カタログにまとめるという必要性から作品を選抜せねばならなかったが、それでも芸術面からも、また、年代順からも、また作品の変化の面からも、そして、現在、作品に大きく影響を及ぼしている精神的な面からも、彼の歩みを感じ取ることが出来るであろう。
ジュゼッペ•シニスカルキ氏は、芸術活動を本格化するのにかなりの時間を要した。しかし「その時」が訪れた時、パズルのピースが全てあるべきところに収まったように全てが結集し、芸術家としての自分を全てさらけ出す、という方法に至ったのだった。幼少時代、そして続く少年時代と青年時代の作品は、このカタログにより初めて公開された。 これはそれらを一時期に鑑賞することが出来る唯一の手段である。これらの作品群を観ていると、長い旅の果てに辿り着いた彼の人生は、今、父親になることと画家になること、この二つの経験によって新たに命を吹き返し、二つの経験は互いに触れ合う点を持ち、融合し合って、 ユニゾンの境地に達したのではないか、と感慨深くなる。
このカタログは幼少期の数少ない作品群をあえて掲載している。芸術性はあまり高いとは言えず、幼少の枠も超えていないが、大変興味深いものがあり、画家としてのスタートはすでに切られていると認識したい。まるでお伽話の絵のような絵画は、混沌とした整理棚の中から見つけ出され、混沌とした彼の記憶の中から、その当時の記憶を呼び起こし、大人になった今、少年時代の純粋な気持ちに心を沿わせて、それを本質的に生理的に取り戻そうとする気持ちを画家に呼び起こさせることだろう。
「子供の遊び」の絵では、背景に黒の線がところどころ飛び交っているが、それがこの絵に躍動感を与えており、大人には理解し難い子供独自の世界を示唆している。
「空想の風景」の構成では、これもまた子供の頃の作品なのだが、油絵の具を上手に使い、美しいものを描きたいという画家的意思がすでに感じられる。私達のほとんどはシニスカルキ氏を大人になってからしか知らないが、この二枚の絵から、少年シニスカルキ氏がいかに大人びた少年であったかを知り、まるで幼い頃から彼を知っているような気になる。
「積み重ねのあやういバランス」は、これも少年期の絵なのだが、この絵を見たものは強い感銘を受けるであろう。作品名でも分かるように、箱が積み重なった塔のような絵であり、ある 箱は秘密を隠しているような、また別の箱は秘密を暴いているような感じがある。まだ人格形成も途中の少年が、自身の未熟さもかえりみず野望のままに上へ上へと箱を積み重ね、塔は今にも崩れそうであるが、あやういバランスを保っている。一体どうやって少年の頭でこれほど 複雑な思考概念をこれほど的確に表現できたのか、驚きのほか何もない。この時期から天職ともいえる画家としてのキャリアが始まったといえる。
世界的に有名な芸術家ポール•クリーは大人になり芸術家になってから年少期のような素朴な絵を描き、少年の心を再び取り戻そうとした。シニスカルキ氏はもっとシンプルでもっと核心をつく方法でそれをより上手く成し遂げている。つまり、彼自身の少年時代の絵を実際に探究することにより少年の心を蘇らせたのだ。
「湖の夜明け」と「山の夜明け」を描いた時、彼はまだ二十歳そこそこだったのだが、すでに芸術家としての才能は花開いている。そして、この辺りから彼のメッセージの本質が見え始める。それは彼の精神的な成長を静かに明示する、並外れたコミュニケーション•ツールとなっていく。
彼の絵の中には、厳かで静かな大自然の中にたたずむ小さな人間が出てくるが、これはおそらく画家自身であり、人類の象徴でもある。初期には端の方に描かれていたこの小さな人間は、 次第に中心部に描かれるようになる。まるで人類が宇宙に属していることを、ゆっくりと段々と強調していくかのように。ここでいう宇宙は、最も敬うべきものとして表現されている。
シニスカルキ氏の作品の中で、自然の要素は次第に存在感を増して行く。初期には自然との闘いを表現した。「自然の力の中の帆船」では、赤い炎が帆船を揺さぶるように、人生の不確実さを表している。そしてまた、「星空」や「天気の良い日」の中の自然では、ゴッホを類想させる青を用いて、また、モネを類想させるような印象派画家が好んで用いたやわらかな色を用いて、人間が己のより深いところにもつ和睦の精神を描き出している。これらの作品らと似た作品を幾つか経たのち、画家は「自転車」と「象徴/幸せ」という、絵画というよりはデザインに近いものを描く。特に「象徴/幸せ」は、図案化している人型が、 両手両足を可能な限り広げて至上の喜びを表している。
そして、画家は風景画を描き始める。理解に深い考察が必要とされるミステリアスな彼の絵は、 鑑賞者の目を引きつけ、己を取り巻く世俗から一瞬のうちに離脱するほど人々をこの絵の世界に吸い込み、世俗とは真逆の、物質的な物が限りなく少ない自然の中へと我々をいざなう。この絵を見る者の心は、絵の中の船が風に行く手を委ねるように、水平線に浮かぶ太陽へと 真っ直ぐに導かれるだろう。
画家は少し後に「アルベルティーノの海」を描くが、そこには「船」と「光輪に包まれた太陽」という二つのシンボルが登場し、時間を超越した調和の境地が志向せられている。この二つのシンボルはその後彼のメッセージを示唆する根幹となっていく。
ここでシニスカルキ氏の研究は最も深い部分に辿り着いたと言える。画家自身がいうところの 「太陽・わ」、時に単に「わ」と呼ぶものである。「わ」は日本語で太陽などの円形を表し、また平和や団結を表す「和」に通じる。
この作品以降、太陽と、己が放つ壮大なエネルギーにより形成される同心円状の光輪は、彼の哲学の象徴として その後何度も登場する。彼の哲学とはつまり、東洋の思想と西洋の思想の壮大な融合に基づく友愛の精神である。「瞑想する日本人女性」の二枚の絵の中にも我々は彼の心の平穏を認めることができる。一枚は太陽と一緒に瞑想する日本女性が描かれており、もう一枚は月と一緒に女性が描かれている。 画家は女性と「太陽•わ」そして女性と「月•わ」を二枚別々に描き、二つの天体間が織り成す 互いの影響をデリケートに表現している。
この感情は壮大で素朴な風景画「日本の田舎の風景」の中にも表れている。画家は、まるで天から下りて来たようなあぜ道が成す十字のサインと、天から我々を優しく温かく見守る「太陽 •わ」を結び付けて考えている。この絵は、ヴァン•ゴッホが晩年に描いた激しい感情の絵とは かなり違うが、それでも無意識の中に彼の絵をどこか意識しており、しかし結果としてゴッホ の激しい感情とは真逆の「わ」の精神を描いている。
「麦畑での瞑想」の夜の闇の中では、完全な平穏安泰の境地に至っている。月明かりの下で十字が交差しており、それは宗教間の違いを超えた完全なる信頼の精神を表現している。
至高の境地を示す「平和の兆し」では、神秘的な闇の中で「月•わ」が燦然と輝き、夜の闇と溶け合いながら、あまたを照らしている。
「平和の灯台」では、土台のしっかりとした灯台が水平な海に直立している。多彩な色調のハ ーモニーで描かれた灯台は、シンプルで素朴な感じがある。これは大人になった画家が少年の心を取り戻しながら、しかし少年が持ちがちな恐怖心は除外して描こうと試みた作品なのだろう。
「夕暮れの十字架と輪」は、これまでの集大成といえるだろう。一日の終焉の輝きを強く放ちながら夕陽がまさに沈み入ろうとしている山間は、 まるで柔らかな揺りかごのように優しく夕陽を包み込み、その下には守られるようにして小さな家が静かにたたずむ。この作品は画家自身が徐々に築き上げた「総合的な芸術作品」の概念を示す良き例と言えるだろう。芸術を超える何かを常に探求してきた彼は、正面にだけ描くという固定概念を打ち消し、キャンバスの正面に止まらず裏面にまで表現を拡大し、応用芸術と絵画の交点から生まれた作品を創り上げている。
最後に近年制作された作品群について述べ、私の短い評論の締めくくりとしたい。これらの作品は、常にキャンバスや紙の表と裏の両面に描かれており、以前に制作された物よりさらに「総合的な芸術作品」であると言えよう。どれも甘く切ないノスタルジアに満ちた叙情詩風のタッチで描かれている。「星空の下の平和」は、様々なイメージを喚起させる。田舎の夜更け、眩しいほどに輝く月、そこにたたずむ一人の人間。彼はついに宇宙との関係に怖れを抱かなくなり、自分の存在を世界の中央に置く。
「無限の平和」では、月の周りをうごめく渦を巻いたような天の動きと、それに合わせて波打つような丘の動きが 互いに同調、融合し、レオパルディの記憶の遭難のように永遠に終わらない”無限”を見事に表現している。
「平和と自然」では、麦畑の上に現れた渦のような輪が完璧なバランスをシンボリックに示しており、鑑賞者は自然との心地よい共存関係を申し分なく感じる事ができるだろう。
「麦畑の平和」を見た者は、彼の他の作品を思い出すかもしれない。しかし、透き通るような、はっきりとした色合いは、他の作品とは明らかに異なるオリジナリティーを有しており、ヴェールに包まれた月は、我々をほっと安心させるような雰囲気を醸し出している。
「砂漠の平和」は、淡い、明るい色合いで表現されている。デリケートで柔らかな砂漠の色は、自然が作り上げる不思議な風景、砂丘を我々に思い起こさせ、まるで”平和”が我々の身体の内側からぐんぐん育っていき、身体が伸び広がるような感覚に落ち入るにちがいない。
「海岸の平和」も、彼の集大成の一つだろう。表絵と裏絵の比較は、どの他の作品よりも興味深い。裏面では表面よりも淡い色を使い、海の青としての鮮明さも希薄になっている。それはまるで夏のバカンスの記憶のように、次第に薄れていく。
「日本での平和な夜」は、タイトルからも想像できるように、巨大な月が神秘的な雰囲気を作り出している。満月が夜の闇にはっきりと浮かび上がり、月の満ち欠けをずっと見ていられる事ができたなら、そんな想いが感じられる絵である。
「「太陽-和」とマンゴー」について述べる事も忘れてはならない。作品名の通り、とても無邪気な純朴な絵だ。我々がもし、無邪気な心を忘れてしまっていたら思い出させてくれる、そんな絵である。この絵の素晴らしさは、限りないシンプルさと決して我々を裏切らない真っ直ぐな真実にある。
私はこの論評においてシニスカルキ氏の作品についていろいろと述べてきたが、それは彼の入り組んだ人生を、そして熱意と熟知を持って取り組んできた彼の芸術家としての道すじを理解する助けとなることだろう。しかし、言葉の限りを駆使したとしても、彼の作品を前にして沸き起こるすべての感情を表現するには決して充分ではない。コメントやましてや分析により、 その感情の波を破壊してしまうくらいなら、黙っている方が賢明なのかもしれない。私は芸術評論家として、シニスカルキ氏の傑出している芸術作品と、そして、芸術を通じて伝えようとしている彼のメッセージの素晴らしさ、美しさを絶賛したかったのである。この大役を果たせたなら本望である。
ガブリエレ•グリエルミーノ
(教授、芸術評論家、芸術史家)
言葉によっては辞書で意味を調べずとも、その言葉がもつ「音」自体によって意味を感じさせるものがある。それらは語源の純正さを保ち、我々に親しみ愛され尊まれてきた。 その良い例が「和 pace(イタリア語パーチェ)」である。語源はラテン語 paxである。 paceを発音する時、パの発音をのばしてパーチェと発音し、まるで「和 pace」の中で くつろいでいるようである。一方、戦争の意味に当たる guerra(グエラ)は、ウの音の時、 口をすぼめ、また、二重のrの巻き舌(タングトリル)による舌の振動の音は、何か苛立 たしい印象を与える。言葉以外にも、たとえ何の音を発していなくても物の形やイメージが何かの意味をほの めかすこともある。地中海の人々にとって「オリーブの枝」と「鳩」は平和の象徴であ る。穏やかな性格の鳩は、大人にも子供にも親しみ愛され、それゆえ聖霊は人々へその 姿を現す時、鳩の姿を頼ってきた。オリーブの枝は、それ自体が持つ緑と銀の色から平 和を示し、オリーブの実から取れるオリーブ油は乾いた肌に潤いを与え疲れた筋肉に力 を与える。イタリア人にとってオリーブの木は南イタリアのなだらかな大地のうねりを 思い起こさせ、そこには広い展望と平和な雰囲気に包まれた自然がある。また、大地は オリーブを始めとするアロマティックな香りに包まれている。
漢字は中国に生まれ日本にもたらされたが、イタリア語の paceは漢字では「和」に当 たる。漢字は像、イメージであって考えではない。像であるがゆえ、多くの用途に用い られ、多くのニュアンスを持つ。漢字は、名詞としても動詞としても形容詞としても用 いられる。イタリア語も似ていて、例えば paceは名詞だが、paceが動詞の「〜する」 の意味の fareと付随して、和解や平定の意味の pacificareになったり、形容詞の pacifico(平穏な、平和の、意味)になったりする。日本語の「和」は、その字一つで名詞 になったり、動詞になったり、形容詞になったりする。しかし、それだけではない。
私の古い漢字辞書「角川漢和中辞典」では、古代中国人は稲穂の姿形をかたどって「和」 の字を作ったと説明している。「へん」の禾(のぎへん)は、稲穂が米を実らせ、頭(こう べ)を垂れている姿をかたどった象形文字であり、また「つくり」の口は、読んで字の 如く口の意味である。「へん」と「つくり」を統合すると、口は食べ物を欲し、得た、 ということになる。つまり「和」は自然と労働の恵み、そして人々の総合援助から生ま れた字なのである。大地の恵みは全世界へと導かれる。旧約聖書詩篇第 8篇にはこう記 されている。
「私たちの神、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あな たはご威光を天に置かれました。
あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなた に敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」詩篇詠唱者は、乳飲み子が力強く乳を飲むその力は、敵と復讐する者をしずめる、と詠 唱する。ここでは聖書と儒教概念には近似点がみられる。つまり「和」の字は稲穂から 出来ており、戦争の後の平和から出来た物ではなく、口と稲穂、乳飲み子の口と母乳か ら出来たのだ。
私の古い漢字辞典は「和」の字についてこう続けている。「この字は二人の人間が心を 寄り添わせようとする時に感じる平和の感情を示している。」そして、「和」の言葉の 説明として様々な用語が列記されている。それは当然、文章の前後の脈略によって使わ れ方は変わってくるのだが。例えば、「和らぐ」「和らか」「平やか」「平ぐ」「穏や か」「あたたか」「凪(なぎ)」などである。「和」の字は名前にもよく使われ、「わ」 と読む時もあれば「かず」と読まれる時もある。平穏平和な女の子に育って欲しいと 「和子」と名付ける親は多くいるし、男の子には「和夫」や「和人」となる。
「和」の字はまた、他の漢字と熟語を作り、人間の存在を尊ぶ言葉を形成している。 「調和」はハーモニーを示し、「穏和」は現ローマ法王のように慈愛に溢れ、情が厚く、 思いやりが深いことを示す。そして「和」は、「平和」の言葉にも使われている。
国の元首が平和を唱える時、勢力の均衡を意味することが多い。つまりここでの「平和」 は、有力者が弱者を支配下に置くことを意味する。戦争からもたらされた平和は、心が 寄り添ってはいないので、民衆がいつの日か支配者に反逆する時が来る。本当の平和と は、常に調和やハーモニーが保たれて、人々が慈愛に溢れ思いやり深く、穏和である状 態のことを示すのであろう。東洋にせよ西洋にせよ、血を流し軍隊による征服によって 平和を勝ち取ってきた歴史がある。文化においても宗教においても、敵対する者同士が 互いを欺き拒否し合い、紛争を起こしてきた。「平和」とは、ハーモニーである「調和」 と、厚情、深い思いやりの「穏和」の二つを伴い初めて生まれるものである。時に人間 はその存在をも自然と融合させることがあるが、その時、真の平和が調和と穏和によっ て生まれる。自然は米と麦を実らせ、生ありきもの全てに食を与える。人々は気持ちを 寄せ合い、聡明になる。こうして自然と人間が一緒になる時、芸術という子が産まれる。
芸術家が夜明けや夕暮れをスケッチする時、そこにはたくさんの「作り手」が参加して、 一つの芸術を創り上げている。そこにはまず、気持ちが高揚している人間がいる。彼は 理性を働かせて対象を見ながら、目の前に広がる光景を描こうとする。次に朝陽や夕陽 という自然の要素があり、人間に描くべきイメージを与える。最後に絵の具や筆といっ た手段であるが、これ無くして画家と自然は何も成し得ない。つまり、すべての芸術の 「作り手」は、絵画から音楽に至るまで、常に人間の心と自然の要素の一致である。最後に尊敬の念を表すためや御祈りのために人は手を合わせるが、その手を合わせたイ メージにまつわる話をして私の話を締めくくりたい。日本では手を合わせる事を合掌と いう。先日、日蓮宗の竜沢泰孝住職とお会いする機会を得た。足繁く当ミラノ日本人カ トリック教会の日本語日曜礼拝に通ってくれている彼の息子さん経一君は、ミラノでオ ペラの歌の勉強をしており、彼を訪ねて日本からいらしたのだ。そして、来賓の竜沢泰 孝住職をテッタマンヅィ枢機卿のところにお連れすることが出来た。現在、当枢機卿は
トリウッジョ市のサクロクオレ黙想会センターに引退しておられる。竜沢住職は枢機卿 に自分がこよなく愛している一枚の絵を贈呈された。そこには、富士山に合掌させた手 が重ね描かれていた。富士山の頂きの形は人が御祈りをする時の手の形に良く似ている。 竜沢住職は絵を見せながらこう申された。「富士山は母なる大地の合掌です。私達は富 士山から教わり、共に手を合わせます。母なる大地とその子である私達、一緒に合掌し ましょう。」テッタマンヅィ枢機卿は大変お気に召され、キリスト教の信念を踏まえて こう申された。「二つの手、一つは差し伸べる手、一つは受け入れる手。合わさる二つ の手は、愛の象徴。」
友人ジュゼッペ•シニスカルキ氏の絵画の中にも差し伸べるものと受け入れるものの調 和が見える。その手は、時として差し伸べる手が受け入れる側にもなり、受け入れる手 が差し伸べる側ともなる。差し伸べる側は差し伸べる事が出来ることに対し感謝の気持 ちを持ち、また、受け入れる側も受け入れる事が出来ることに対し感謝の気持ちを持た ねばなるまい。その時、平和が生まれる。稲穂と口、乳児と母乳。母乳は空腹な乳児の 胃を満たし、やがて母乳は絶える。そして、いつの日かその子は成長し、年老いた母を 世話す
る。これこそが「和」である。
ルチアノ•マッヅォッキ神父 ミラノ日本人カトリック教会.
ジュゼッペ・シニスカルキとの幸運な出会いは、ある共通の友人を介してのものだった。 今でも科学博物館でミラノ工科大学監修の展覧会を見に行ったそのときのことを覚えているが、我々はそれからのいろいろなつながりについて考えることもなく、ただ、彼の携帯に入っていた作品の写真をいくつか見た。 言うまでもなく、その瞬間、我々はふたりともイタリアのアートや文化遺産への情熱に動かされていること、保存の活動にお互いに関わっていることを確信した。そして、私にはすぐにわかったのだ。そこで意味をもつのは、通常現代の美術評論で必要とされるような道具立てではなく、芸術的経験の美の「境界」をどのように定めるかだということを。それは、美術史において確立している確固としたものではない、微妙な「境界」を定めるもので、個人的かつ人間的なヒストリーに内包された「詩」の発するメッセージをとらえるものなのだ。 実際そこに表現されているのは、語ることの難しいヒストリーだ。一方で根源的で複雑な象徴体系を表し、もう一方で創造的直感が有する言語がそこに表出しているからだ。その言語は幼児期にオリジンをもつ、単なる美的領域を越える「詩」を生み出す。人生の真の全的体験でありつつ、芸術作品自体の強力で精確な意志をさし示す体系の「記号」を研ぎすます。それは、顕示される瞬間、ヴェールをはぎとる行為、かつ、何よりも、ある新しい世界を現出させる可能性でもある。それこそ、ガダマーによれば、ただ「芸術」にのみ属する可能性だ。
このような誕生の過程において、シニスカルキの作品の最も根源的メッセージが読み取れる。それは、美術史とは偉大な幻視者たちの「記号」を旅することを教えるものだということである。彼が色彩を継承するゴッホにはじまり、多くの画家たちをへてバスキアに至る道だ。1万8000年以上前にアルタミラの洞窟の奥深くにしるされた軌跡に連なり、我々にまでつながっている。
ここで今、偉大な幻視者たちの芸術が伝えてきた救済のメッセージが改めて伝えられる。シニスカルキの絵の根源は、我々ひとりひとりの奥底から取り出されて横溢する、何よりも「記号」と色というパラダイムからなる無限の内面性だ。そこからどんな表現が表されるかを想像するのはたやすいだろう。それは、色が象徴なら、はるかな記憶について語る子供のような素朴な「記号」であり、「アンセストラル(プリミティブ)」と形容してもまちがいではない。
ジャック・ラカンの言うように、言語において「他者」との関係が確立するなら、「欲望」の「記号」には、ロラン・バルトが示す通り、官能が読み取れる。それは芸術作品が表現しようとするメッセージのすべてがかかっている究極の緊張であり、そこにシニスカルキの「詩」があり、明白に「他者」にむけられた「記号」を担う「しるし」が生まれる。「他者」とは「欲望」によって形成される「言語」が含意するものだが、この「欲望」は「芸術的な意図」とアロイス・リーグルが呼んだような、精緻で絶対的なある「世界観」だ。 そこから、古典的で原初的な世界が開かれる。それは、直接的かつ根源的な象徴体系からできていて、子供の頃からずっと創造的な行為のたびに独特の表現世界を生み出してきた絵画的なアルファベットがよみがえる。シニスカルキの象徴的世界は、まさに彼独特のものだ。そのすばらしさは、大人の言葉になってしまうちょうどその直前の瞬間にとどまっているところにある。大人の言葉、すなわち本質や直接さの支配から離れ、さまざまなほかの文化、ほかの社会、ほかのアイデンティティには理解できないあのバベルの言葉の手前でふみとどまっているのだ。
それは、ある共通の言葉、新しいエスペラントで、その根源的な絵画表現に見いだされるようだ。生命力と原初的な象徴の力でだれにでも語りかけ、まるで砂で城をつくる海辺の子供のように、だれとでも単純な行為と記号で遊ぼうとする。もしカフカが我々に、城は大人にとってもすばらしい驚きにみちた遊びであることを教えてくれたなら、シニスカルキが我々にすすめるのは、城を、感覚を失わせる高い塔にかえてしまわないように、触覚が呼び覚まされる原初的なアルファベットにこめられた深い「意味」を取り戻すようにということだ。
そこで「私」という根を探し続ける中、魂の救済を求める、神秘的で古えからの象徴において、あえて子供っぽいその「言葉」から現れるのは、シニスカルキの「記号」の言語の基本だ。その「詩」から新たな物語と表現の地平の種が生まれる。まず作家によって内面化され、さらにたびたび油彩において描かれている小さな人の図像のトポスは、現実を越えた向こう側を最初に見つめる人だ。それはその絵画的世界で、自然に仕上げられ、組み直された現実なのだ。l そこで、たくさんの作品のひとつひとつにおいて、子供時代からの作者の詩的宇宙が語られる。まず「休息—疲労のあとの瞑想」に見いだされるのが、日なたに忘れられたミニカーを思わせる青いエネメルにこめられた、過ぎ去ったはるかな時代の記憶だ。今また休息のときに取り戻される遊びの時間、それは自分自身に向き合うように連れもどされた人の顔をしている。再び、ロダンの「考える人」とともに浮かび上がるのは、ゴッホの肖像だ。それはフランシス・ベーコンが描いたたくさんあるものの一つで、人間の無垢を表している。
それから「子供たちの遊び」は、どんどんむずかしいものとなり、無垢から離れる。キャンバスと対決するような太いパステルで描かれたしるしからもうかがわれるが、それはアリスのように「鏡の向こう」の世界と遊びつづける、目には見えない猫につかまれた毛糸玉だ。ノルベルト・プロイエッティや、ミラノ生粋の画家だが地元では知られていないリッチョのような、ムナーリが教えた通り、子供時代にもどって生き生きとした遊びに満ちた表現力を得た偉大なクリエーターたちは多い。
「13」ではその糸が機織り機を見つけたようだ。古い糸かせ機が「糸のしるし」に糸を撚るが、バスキアや、グラフィティの素朴な要素が思いだされる。
「ミラノ的」といえば、もっと複雑なのが「ロッククライマー(スカラトーレ)」の記号だ。62年の最初の展覧会以来半世紀以上たって、ウーゴ・ラ・ピエトラやアンジェロ・ヴェルガに率いられるチェノビオのグループが思い出させる。
さらに「4つの花」のもとになっているのが、よりグラフィックな、ブリューゲルやフランドルの銅板画のような「記号」、ゴッホがレンブラントの作品の中に見たものを見つけようという望みだ。まるで土に引かれた条のように、掘り下げて痕跡を残す「記号」であり、芸術がしばしば芽吹かせる「救い」の種がそこには集められている。
カルヴィーノの「見えない都市」につけくわえればいい「空想の街」と名付けられた世界に足を踏み入れれば、バビロンの門を越えたかのように、レゴでできたまちが広がる。建築家の卵、子供版ファン・ドゥースブルフが、巨大な遊び場に都市の様相を与えているようだが、18世紀の理想都市を夢見る建築家たちに愛され、19世紀のフリーメンソンたちのあこがれであったあの建築家のちょうど反対というわけだ。 そして、「ヒュブリス」の罪を犯さないようにと警告を発し、世界を創造した神々とその掟を祈念する「仮の建築物」。調和の揺らぎと不条理をあからさまにしながら非情で尊大な形式を作りだすピラネージ的な壮大なカノンの記号を思い出させる。さらにそれは、晩年のモンドリアンを思わせる形の単純化が見られる「抽象」で凝縮された。「ブロードウェイ・ブーギー・ウーギー」のリズムに構成の意志がとって代わり、ブルーの色調に描かれている(英米系の表現センスが活かされているのも偶然ではない)。
子供のころの罪のない眠りや夜のはかない悪夢、もしくは夢占いには、「湖の夜明け」の休息とざわめきにともなわれた目覚めの安らぎが訪れる。ジオット風の木々は、ルソーの驚きにみちたまなざしと、カルロ・カラの鋭く超然とした視線を通して描かれてもいる。下には1888年の7月の夜にはじめて、孤独なパリの人気のないカフェにたたずむその人の姿がある。そして、ゴッホが「山の夜明け」のひとりぼっちの男の姿でもどってくる。ただし、ここには友エミール・ベルナールもいる。放牧の牛たちはまるで昔の油彩(「草地のブルターニュの女たち」)の象徴主義の筆で描かれたのが連れてこられて、モザイクに組み込まれたかのようで(そもそもクロワゾニスムの重要な作品だった)、1世紀の時をへたそのもう一人の偉大な「幻視者」へのオマージュにもなっている。
作品のイメージをひとつひとつ分析していけば、シニスカルキの芸術から響きわたるような予言的な幻には、多くの名前がこだましていることがわかる。ウィリアム・ブレイクの幻視的な夢の夜のイメージから、ポロックのほとばしるような衝動まで、スキファーノのほのかに醸し出される優雅な色彩のシンフォニーから、「印象派」の時代のカンジンスキーが規範を転覆した原初的なビッグバンの最初の爆発まで。特に「月光の下の安らぎ」のページで表現主義の渦にのみ込まれていく思い出を語ってもいる。彼独特の「幸福」に訪れる表現主義は、新しい十字架という贖罪の象徴に凝縮されたもので、マティスの生命の喜びとは非常に異なるし、フランシス・ベーコンやほかの多くの画家たち、たとえば現代作家のヘルマン・ニチェなどのものだ。ある精確なイコノグラフィーがあり、それが何度も繰り返される。例えばメランコリーのテーマは、ムンクをもとにして反復されるのである。たとえば、小さな帽子をかぶった男は十字架と「和」というべき調和の象徴で、暮れ方の月が赤や黄色、琺瑯のブルーの色調に描かれながら、一つに組み合わされ、喜びの渦で融合する。
しかしより鮮烈なのは、西洋美術のコードをまとめる不安定な均衡に関わり、その深い淵では、不思議な混交が起こる。デューラー的記号にヴェドヴァやクラインが結びつき、それがボナール流の恐怖のヴィジョンに組み直される。生命の起源の水が再び活性化され、芸術上の完全な転生に命が吹き込まれて、新たな意味論的世界ができあがるのだ。それは、仏教絵画的な文化が新しい形を生み出し続けると同時に、日本的な図像の伝統が、やむことなき緊張にさらされながら、「和」という漢字に意味される概念に回帰していく世界である。「和」とは、二つの世界を結びつける漢字だ。その字は、もともと二つの記号が結ばれて、「穂」(芸術が作られる精神的な養分)と「口」(芸術が発信される人間の魂)を意味しながら出会いつつ、新しい「和」、平和という意味を生み出す。 こうして、「和の灯火」が新しい世界の光となり、その宇宙は私たちの世界において人間の魂の奥底から浮かび上がってくる。悪しきを祓い、神聖で精神的な癒しのメッセージを守る古い、原初的な象徴体系から生まれながら、新たな調和のしるしを結合させるのだ。
調和と美。それによって芸術は人間を救うことができるのである。
小林伸二ジュゼッペさんの絵の世界
もともと弁護士でもあるイタリア出身の画家ジュゼッペさんが今、日本美術と西欧美術の融合を目指して本格的制作活動に入っています。 そのジュゼッペさんの絵の世界についての感想を述べたいと思います。 その前に少し長くはなりますが、次のようなエピソードを述べてから本題に入りたいと思います。
私が高校3年(1950年)の時、西洋史の時間に先生から次のような話を聞きました。そしてその話に非常に感動しました。それは14世紀イタリアの有名な詩人・哲学者であるペトラルカがある山の登頂に成功した時、”山は俺の足の下にある”と言ったという話です。これは山(自然)に対する人間の優位性を高らかに宣言した象徴的な歴史上の出来事であると先生が付け加えました。当時の私にとってこの話はとても素晴らしいものに思えました。 なぜなら、自然を征服の対象とし、人間のために利用してきた西欧文明の営みがあったからこそ、ルネッサンスを経て人類の歴史に物質的な豊かさをもたらしたのだと思ったからです。
その頃の日本(1950年)は太平洋戦争後の混乱期から復興へ向けて力強く動き出していた時代でした。西欧社会の在り方を全面的に受け入れて西欧へ追いつけ追い越せを合言葉にしていた時代でした。同時にこれまでの多くの伝統的な日本の価値観が大きな転換期を迎えた時代でもありました。
その復興の足音が大きくなりつつあった1956年、日本の登山家槇有恒(まきありつね)がヒマラヤ山脈の高峰マナスルの登頂に成功し世界的ニュースになりました。自信を失っていた日本人にはとても明るいニュースでした。その時彼が書いた「マナスル登頂記」を読んだ私は、高校3年生の時に先生から聞いたペトラルカの言葉を思い出しました。登山に対する両者の考え方が全く異なっていたからです。
槇有恒は、山や自然を征服するという言葉を全く使っていません。それどころか「山の懐に抱かれながら登頂する」と書いているのです。それは、自然を対立の対象と捉えるのでなく「共に在る」存在とする心でもあります。それはまた、日本文化の底に流れる「和 」の精神でもあります。 この本を読んだ私は槇の考え方に強い感動を覚え、ペトラルカの言葉に違和感を抱くようになりました。日本人としての、アイデンティティがそうさせたのでしょう。
一方、現実の世界の主流は日本も含めてペトラルカに象徴されるような西欧思想一辺倒のまま今日に至りました。結果として今日のような物質的豊かさを獲得しその恩恵を受けることができたのでしょう。
しかしこの物質的豊かさを獲得するためには「自然破壊」という大きな代償を払わなければならなかったことも事実です。この物質的豊かさは自然を対象化し利用した結果ということが出来ます。自然や物事を対象化するという感性は、やがて「人間」そのものをも対象化する結果になりがちです。
その結果、今日の私たちは自然との絆、人間同士の絆をも失いつつあります。漠然とした不安感・孤独感に襲われ精神的飢餓状態にあると言わざるを得ません。
このような危機的状況から脱出する方法はあるのでしょうか。
過日、私はジュゼッペさんとお会いして、彼から絵を見せていただき彼の美術論を聞きました。その時、なぜか前述したペトラルカと槇有恒のことを思い出したのです。そしてペトラルカと同じ国のジュゼッペさんが数世紀を経て「日本美術と西洋美術」の融合を目指していることに大変興味を覚えました。ジュゼッペさんによって漸く槇有恒に象徴される日本文化と西洋文化の融合が始まったのだと嬉しく思いました。そしてそのことが現代人の精神的危機を救ってくれるきっかけになるかも知れないと思いました。人類の未来に明るい光をもたらすことになるかも知れません。 その私の思いのプロセスを説明するために前述した長いエピソードが必要だったのです。
ジュゼッペさんは2011年、ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館における日本の彫刻家・吾妻兼次郎との出会いで日本美術や日本文化に深い興味を抱いたのだそうです。それ以来小さい時からの夢だった絵の仕事に没頭し始めました。表現意欲の根底には日本的な「和 」の表現への強い願望があったのです。日本的なものへのあこがれの背景には上越市出身の素晴らしい奥様の存在があったのかも知れません。
典型的な西欧人であるジュゼッペさんが日本的な「和の精神」に強い関心を示しそれをモチーフに今精力的に絵を描いていることは私にとってとても嬉しいことです。今まで西欧人にとって理解することが困難だと言われてきた日本文化がこのような形で国際化されることは日本だけでなく未来の世界歴史にとっても大変意義のあることと思います。
ジュゼッペさんの描く絵(油彩)の世界はとてもユニークなものに見えます。表現された人物は特定の国や民族の違いにこだわらない、いわばコスモポリタン的な雰囲気を醸し出しています。またどの絵にも、人間と大自然との幸せな交信場面のようなスケールの大きさが感じられます。さらに付け加えるならば偉大で永遠な宇宙と儚い命を持つ人間とのシンフォニーのようにも感じられます。 そこには、あらゆるものの対立を認めず、この世界に存在するすべてが「環(わ) 」になってつながっているのだというジュゼッペさんの強いメッセージが込められています。それはとりもなおさず世界の平和への願いでもあるのでしょう。この「環」という文字は「和」という日本語の持つ文字の意味とどこかで繋がっています。ジュゼッペさんはそのことをすでに承知しているのだろうと思います。
画面構成の手法は極めてシンプルです。そして表現技術の巧みさにこだわらない故に全体的には素朴で多くの暗示を含んだ瞑想的な絵になっています。
ここで、ジュゼッペさんから見せていただいたの絵の中の一枚を取り上げて(画題はわからないのですが)感想を述べます。
画面中央に東洋風の一人の可憐な女性が笠を目深にかぶってうつむきがちに立っています。画面右上に月が描かれ青白い月光が彼女を照らし、あたり一面を照らしています。イタリア人のジュゼッペさんが、描く人物をあえて東洋風に描いた理由は西欧人・東洋人、さらには、地球上のあらゆる人種を超えた立場で描いているからだろうと思います。大地に立つ人物の足首が大地に埋もれ、あたかも大地から生え出ているように感じられます。その意味ではこの女性は大地と一体で大地の「子」なのでしょう。同時に時空を超えた宇宙との一体感の表現でもあるのでしょう。笠の上の日本語の「和」という文字はそのことを暗示しています。
私はジュゼッペさんのこのような絵をみているとなぜか、日本の伝統芸能(演劇)である「能」が頭に浮かびます。「能」の舞台で繰り広げられる世界には過去・現在・未来の区別はありません。それは時空を超えた世界で演出されます。舞台装置はシンプルで余計なものは一切ありません。登場人物の顔は「面」で隠されています。音響効果は極めて超現実的です。薪能のように屋外で行われることも多くあります。ある意味では「能」は大自然や宇宙との壮大な交信の場でもあるのです。そして宇宙のあらゆるものの時間・空間が「環」になってつながっている世界です。
その意味でジュゼッペさんの絵の世界のエッセンスは「能」の世界に通じるものがあるように思います。
日本美術と西欧美術の融和を目指して活躍しているジュゼッペさんのひたむきな姿には頭が下がります。その活動はすべての人たちとの「和」 、さらに世界平和を達成するための願いの活動でもあります。 現代人が直面しているある種の「精神的飢餓状態」からの解放のためにもジュゼッペさんの今後のご活躍をお祈りいたします。
この文は長い前置きなどを含めて、独断的な記述になってしまったかも知れませんがお許しいただきたいと思います。
日本水彩画会会員
前上越市立博物館館長
小林 新治
シモーナ・トマセッリ序文。見えない月の裏側。
そう、そこに、ジュゼッペ・シニスカルキの「わ」1は、きらきらと輝く。
シニスカルキの絵は、神秘的なメロディーのように心にすうっと入り込んで来る。それはまるで自然界の音が捧げる祈りを聞くようだ。 海の音、風の音、木の葉が揺れる音、雪解けの雫の音。輝く太陽の光、夜空にまたたく星が心に奏でる音。これらの全てが、神秘的な空間の物語を創り出す。この人をより気高く、より真実に近い場所に生まれ変わらせるために、その空間はある。 この人が色彩と強い光に彩られた土地・プーリアに生まれたのは偶然ではあるまい。海と空の青、土の魅惑的な赤、うっとりとするような自然の香り。そう、顔を上げて空をあおぎ、静寂の中にその身を託して再び頭を垂れる時、誰もが我を忘れる。それは、忘れられたことのない、人間と神の間の儀式。自分自身を超越する神聖なもの。古代から今日に至るまで続く営み。
シニスカルキはそれをしっかりと表現し、理解している。自分の芸術には何かができると知っている。彼の絵は、ちょっと立ち止まって、命の光に満ちた月にその身を任せることができる人には「曼荼羅の癒し」だ。そこに「わ」があるから。「まんまるのわっか」が象徴するものを、彼の絵はこんなにも豊かに孕んでいるから、その「わ」はキャンバスの裏面までも、静かに腕に抱く。そしてそこに生命力が宿る。
月の裏面は見えない。でも、そこにある。
これはシニスカルキの言葉だ。私たちの目に見えないものも、どこかに潜在的に隠されていて私たちが理解できないことも、別のとこ
ろにはその姿を現し、明らかに存在している。この絶対的な価値観のもと、彼の「まんまるい」絵は、一種の視覚的に哲学的な瞑想の中になみなみと注がれて、それを見るものは立ち止まる。
私たちは心を開かなければならないと、シニスカルキは訴える。禅で言うところの「無」を知り、広い心を持ち、偏見とうわべの価値とは無縁の子どものように、感受性豊かであらねばならないと。彼の考えはこうだ。「どんな場面でも、目に見える物を通り越してその奥にあるものに手を伸ばすとき、日常のルーティーンの渦の中で実は忘れ去られている大切なものが見えて来る。」せき立てるようにさらに続ける。「資源や無形のものの多くがそうであるように、この世のものの大半は目に見えないのだということに、思いを馳せなければならない・・・」。
2014年7月、シニスカルキは、自らが推し進める芸術的・文化的・哲学的な新しいムーヴメントの掟を定める。そこに、「フロントヴァーシズム」が生まれる。目に見えない月の裏面が、別の場所に輝き始めた。
目に見えるキャンバスの表の絵は、その裏にある見えないものによって完成されるのだ。
シニスカルキの思想に強く影響しているのは、日本人で、バランス感覚豊かな妻・関原睦恵と、シニスカルキの友人であり偉大な彫刻家の吾妻兼治郎先生だろう。吾妻先生はフロントヴァーシズムの趣旨を共有しマニフェストに署名した最初のメンバーの一人だ。しかし、シニスカルキは幼尐期から既に、その哲学の「遺伝子」を身につけていた。
その子は人間の中心的なテーマを手探りで探していた。戦争、平和、愛、家族、「積み重ねのあやういバランス」2に表されるような複雑な概念。どちらかというと彫刻家が持つ空間の創造性を模索しながら、このとき既に紙の裏にも絵を描き、最初の一歩を踏み出していた。
シニスカルキの幼尐期のエピソードのうちいくつかは、私の好奇心をかき立てた。そのとき私は、彼の芸術的メッセージを完全に理解
するために、彼の人生の導線を遡って行かなければならないと直感したのだ。
幼尐期の絵「数」で、シニスカルキは紙の表にいくつかの数字を描き、裏面には表にない数字を描いている。これは一種、ものごとの全体を表・裏両面から読み解く動作ともいえる。
だから私はまず初めに、自分自身の幼尐期の段階を研究するべきだと彼に助言した。そしてその結果、彼はとりつかれたように自分探しを始めた。おそるおそる、自分の最初の作品群にまで遡り、更にその前の旧い記憶を辿り、最後に、自分の原始の姿よりも更に旧い記憶・・・人間があの「暗い、または神聖なものの世界」の風に揉まれていたときの記憶の中に立ち止まりながら、「時空を超えた人」を見つけ出した。その「暗い、または神聖なものの世界」は、科学者・芸術家・信仰を探求する人々にとっては大切なインスピレーション・研究心の源泉だ。
つまり、シニスカルキのこの作品の中には、彼の最初の言葉の種があるのだ。この世で最初の人間が、顔を上げて空をあおぎ、たくましい手で土を掘っていた時代から始まった、長い長い旅の中で見つかった種が。
さて、作業現場にいて工事の土台を見せるように、この大仕事について語りたいと思う。
全ては2013年の6月に始まった。そのときジュゼッペ・シニスカルキ弁護士は、私が関わるレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館主催の宗教交流行事のために協力してくれていた。つまり全ては普通の仕事の会話から始まったのだ。
私は時々彼と打ち合わせした。いつもグレーのスーツに身を固めた、いかめしい弁護士、というのが私の印象だった。穏やかで、礼儀正しい。数ヶ月後、彼のことをよりよく知るに至り、彼の態度が日本文化に見られる厳かな雰囲気に似ていると気がついた。 彼はそのときたまたま、自分の描いた絵の写真をiPhoneで私に見せながら、芸術に興味があるという話をしていた。私はすぐに彼のポテンシャルに気づき、その才能を表現するためにもっと絵を描くべきだと背中を押した。
シニスカルキはキャンバスに向かい黙々と描き始めた。自分自身の芸術に陶酔しながら、惜しみなく。
まさに睦恵が妊娠していたのと同じ時期に、まるで彼のエネルギーが爆発したようだった。
そのうちに私たちの友情は段々と深まっていった。共通のプロジェクトが生まれた。彼の中の芸術家が、ぐいぐいと外側に現れてきた。
2013年のクリスマス、シニスカルキは友人らを驚かした。自分の絵が入った2014年のカレンダーを作ったのだ。今から思えば、あれが、この作品集を出版するという案に至る出発点だった。東洋と西洋の完全な調和の中に、深い宗教的意味を込めたメッセージを明白にしながら、彼の作品を紹介するというのが私の意図したところだったが、それを仕立てるのは簡単ではなかった。
彼の女神、睦恵。そこにしっかりと存在している、理想の人。もの静かで粘り強く、日本の小学校でシニスカルキが絵画教室を開く手助けをした。
週を追うにつれて、シニスカルキの回想録は彼の幼尐期に迫って行った。彼は、幼い頃の写真やら、実家の引き出しで見つかった絵やら、天井裏で忘れられていた小学校時代のノートやらを私に見せてくれた。
彼の個人的な探求は日を追うごとに感動を伴って完成の極みに近づいていった。彼は、今や老いた小学校時代の先生に会いに行った。先生は彼を覚えていた。シニスカルキにとっては幼尐期の側面が無視出来ないものになり、作品集の一番最初に持って来ようとまでした。
さなぎがなくては蝶が生まれないように、冬がなくては春は来ない。
そこに意味を込めながら、物語をつむぐ過程は決して短くはなかった。
友人ジュリアーノ・グリッティーニの素晴らしいアトリエに行くために、コルベッタに何度も足を運んだ。そこが私たちの作業場になり、作品集は次第に形を整えて行った。
一年かかって、やっと仕上がった。シニスカルキのメッセージは熟し、フロントヴァーシズムのマニフェストの上に明らかになった。
フィリップ・ダヴェリオの批評を読んで、私たちは皆一様に興奮した。
編集作業の終了直前に、日本から小林新治先生の批評が届いた。貴重な助力である。ここに、作品集の編集はついに完成を見た。
最後に、批評を寄せてくれた友人らと、世界各国からコメントを送ってくださった人々、とりわけ、米国から「全体の出来が部分の合計を超えている」とのお言葉を寄せてくださったグイド・カラブレージ名誉教授に心から感謝する。
それでは、良い旅を!